平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。
〇月×日
夕方、中年の日本のご婦人に伴われて、ブロンドのアメリカ女性がお見えになった。ハタチ過ぎているのかな、学生風である。アジア系の人はときどき見えるが、アメリカ人は誠にめずらしい。
「How much?」
「え~と…え~と…Yes!」
アタシャ、英語は“Yes”と“Thank you”しか知らねえんだから、なんでもすぐ「イエース」だ。下町のしなびた風呂屋のオヤジが、間違ってもインターナショナルであるわけがない。お連れのご婦人が流暢な英語で通訳をなさる。聞けば、日本語の勉強に来日したという。ホームステイですな。銭湯も初めて体験するそうだ。
日米チャンポン語でフロントを通過し、ご入浴およそ1時間余。白い肌に湯上がりの上気した顔でにこにことお出ましになった。おっかなびっくりお入りになったようだが、思いのほかお気に召された様子である。「楽しそうだった」とご同伴の通訳さん。「また来よう」とも話したという。
そこでアタシは気分をよくして、エラソーに1つ付け加えた。「日本を知るにはまず銭湯を知らなければならない」ってね。もちろん日本語でだ。通訳さんがいるからなんでもしゃべれる。そしたらこのミセス通訳がまたいい。当方の意を汲んでこうおっしゃったんだな。
「そうよねえ、昔は銭湯が町のコミュニティの中心だったんでしょ?」
そして、おもむろにその旨をミス・アメリカに通訳なさった(とアタシは解釈した)。
ミス・ブロンド、にこにこと聞いていたが、はたしてわかったのかなあー。
〇月×日
開店早々、小学校4年生の男の子が現れた。
「学校の自由研究なんですけど、お風呂屋さんの一番込む時間を教えてください」とひと言。
「エッ自由研究? 込む時間?」「ハイ……」
1年ほど前、やはり小学生に銭湯のシステムなどを説明したことがあったが、単純に「込む時間」だけを教えろでは、ちょっと拍子抜け。
「ホントにそれだけ?」「ハイ!」
ウ~ム、それで自由研究かー。アタシの物足りないような表情に、4年坊主やおら補足説明。「魚屋さんや八百屋さんの込む時間も聞くんです」
ウ~ム、それでわかった。近所の商店を回り、それぞれの忙しい時間を調べるってことか。なるほど、つまり「中小零細企業における景気の動向調査」か。こりゃあいい自由研究だ。
さて、そこで自由研究に対するレクチャーだが、これ、現在の銭湯にとって実に難問なんだな。あっさり聞く子供に、アタシもあっさり答えようと思ったが、ハテナ? 「この時間は混雑します」といえる時間帯は……ウ~ム。また“ウ~ム”がでてきちゃた。
考えれば現在のショウバイ、昔日の面影なく「時として込む」程度である。アタシャ返答に窮したよ。しかし、「込む時間なんてない」ではあまりにソッケないし、第一、風呂屋のオヤジのコケンにかかわる。で、「今は夕飯後の9時すぎから11時ごろまでかなあ」と、強いていっちゃった。強いてね。セツナイ話だ。
今、風呂屋のオヤジは、お客さんの多様なニーズにこたえ、新しい銭湯の価値をどう構築していくかに懸命な努力をしている。
そんなときに、小学生坊主によって「風呂屋のオヤジよ、しっかりせい!」とケツをひっぱたかれた感じである。厳しい自由研究だー。
【著者プロフィール】
星野 剛(ほしの つよし) 昭和9(1934)年渋谷区氷川町の「鯉の湯」に生まれる。昭和18(1943)年戦火を逃れ新潟へ疎開。昭和25(1950)年に上京し台東区竹町の「松の湯」で修業。昭和27(1952)年、父親と現在の墨田区業平で「さくら湯」を開業。平成24(2012)年逝去。著書に『風呂屋のオヤジの番台日記』『湯屋番五十年 銭湯その世界』『風呂屋のオヤジの日々往来』がある。
【DATA】さくら湯(墨田区|押上駅)
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『1010』16号(1995年10月発行)に掲載
銭湯経営者の著作はこちら
「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛
「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)
「東京銭湯 三國志」笠原五夫
「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫